楮覚郎さんの藍染物語
Buaisou.のワークショップ会場で。右から:楮覚郎さん、須藤玲子先生、渡邊健太さん(2017.4 東京・中目黒)
楮覚郎かじかくおさん
楮さんは、東京造形大学テキスタイルデザイン専攻の卒業生です。
2011年3月の卒業で、震災のために卒業式はありませんでした。
青森・八戸出身の楮さんの実家に大きな被害はなかったものの、お祖母さんの海辺の小屋が流れてしまったという話を記憶しています。
卒業制作
彼の卒業制作は大作でした。
彫刻専攻の学生との共同出品で、左が楮さんの作品「毒と薬」(H193×W143×D90㎝/木、サイザル麻、柿渋)
柿渋で染めた1本の麻ロープを大きな箱の穴にひたすら通し続けた力作は、織物の構造が端的に表されていていながらも、織ることを拒否した作品ということもできます。また、制作にかけた膨大な時間は、“つくる”ということへの根本的な問いかけだったのかもしれません。
貝紫染
卒制ではアートな作品を制作した楮さんでしたが、彼は入学した時から藍染をやると決めていたようです。
学生の時も、一貫して天然染料にこだわっていました。
例えば、3年生のときに自主的に研究した貝紫染があります。
そのレポートによれば・・・雑誌の古本で見つけた貝紫の小さな記事に惹かれ、ちょうどその頃に「奇跡が起こった」。つまり、授業で八王子の産業センターに行くと、偶然、そこに貝紫の記事を書いた染織家がいて、貝紫染めをやりたいという気持ちを伝えると、後日、ご自宅で教わることができた・・・というのです。
さっそく自分で貝紫染に挑戦です。しかし、大量に必要とする貝の入手先を先生から教えてもらうことができなかったので、自力で探すことになりました。新潟漁連、富山漁連と電話して、石川漁連で1つの水産業者を紹介してもらいます。
そして、36kgの貝が届きました。
アカニシ貝(レポートの写真から)
染料の取り出し(レポートの写真から)
早朝から貝を砕く作業を始め、砕いた貝から取り出したパープル腺を容器に集め、日光の紫外線で紫色に変わったものが染料の基。教わった直説法ではなく、あえて還元法に挑みました。
レポートの最後には、「骨の折れる作業、強烈な悪臭などから、2度とやるものかと思うのが正常な人だと思う」とあります。
貝紫で絹糸を染め、見事なタペストリーが織り上がりました。
(右:楮さん3年次の課題作品/2009年第33回ZOB展会場で)
Buaisou. https://www.facebook.com/buaisou.i/
(冒頭の写真をはじめ、写真の多くをBuaisou.のFacebookから拝借しました)
楮さんは卒業後、初志貫徹すべく都内の工房で研修生として藍染に携わり、そこで藍染のふる里ともいうべき徳島県板野郡上板町の地域おこし協力隊募集を知り、2012年に上板町に移住。同じ協力隊の渡邊健太さんと知り合い、3年間の協力隊を終えた2015年、その間に知り合った2人を加えて4人でBuaisou.を立ち上げました。
右から:楮覚郎さん、三浦佑也さん、結城研さん、渡邊健太さん
上板町に畑を借り、牛舎をアトリエに改造。
Buaisou.は、藍を植え、育て、刈り取り、蒅を作り、蒅で藍を建て、糸を染め、布を染め、バッグを作り、シャツを作る。藍染の始めから最後まで、全てを自分たちでやってしまう一貫した藍の工房です。また、木を染め靴を染め、藍染の可能性を押し広げる挑戦者でもあります。
この糸は、Buaisou.オリジナルのジーンズのために染められた糸です。半年かけて、6回染めた糸が800かせ。織りあがったデニムを楮さんが縫製。
3月に南青山・スパイラルで開催された「THREE TONES」に来場した楮さん。手にしているのがBuaisou.オリジナルのジーンズ。
楮さんは、この後渡米。
リーバイス本社で、リーバイス史上初という藍染のワークショップを行い、さらに、資料室でジーンズの初期の貴重な資料を見せていただいたそうです。
世界が、徳島のBuaisou.に目を向けています。
テレビに取り上げられた楮さん。
学生時代から一貫して追いかけてきた藍染の世界。本物を手にするために上板町に移り住み、全てを自ら行うことで得た誰にもできない藍染の新世界が、世界へと羽ばたき始めています。
かっこいいなっ!!!
学生の皆さん、後に続きましょう!!!
(UPO)